昭和47年09月23日 朝の御理解



 御理解 第76節
 「人間は人を助けることができるのはありがたいことではないか。牛馬はわが子が水に落ちていても助けることができぬ。人間が見ると助けてやる。人間は病気災難の時、神に助けてもらうのであるから、人の難儀を助けるのがありがたいと心得て信心せよ。」

 人間は人を助ける事が出来る。人を助けるほどしの信心と言うのは、自分自身が、先ずは、助からなければならない事。これは信心を抜きに致しましてからの人を助けるというのは、大変意味が違います。お金を沢山持っておれば、お金で難儀をしておる人を、助けてやる事が出来るといったようなものであって、信心で言うのは、そこに貧乏をしておるから、お金を恵んでやる事よって、それで助かるという事ではないですから、信心で言う助かりというのは。
 お金を恵んだ為に、かえって助からない事になるのかも分からないのですから。ですから、ここは何処までも、人を助ける事が出来るという事は、信心者、私共に下さる御理解なのですから。それは自分自身が助かる事。自分自身が助かっておらずして、人を助けるという事は出来ません。だからこそ、有難い事ではないかというのです。自分自身が助かっておるから、信心で言う意味に於ての、助かりですね。人を助ける事の御用が出来る。だから有難いのである。
 お金を沢山持っておるから、お金で助けてやる事が有難い事ではないかというのでは、これは信心者以外の者になら、それは通ずるけれども、信心者には、それは通用しない。まずは自分自身助かるという事が有難い。いわゆる自分自身の助かり、言うなら、自分自身が信心によって力を受ける。信心によって受けた力をもって、人を助ける事が出来る。だから有難いではないかという事になるですね。
 そこで有難いという事なんですけれども、結局、信心をさせて頂いて、有難くならせて頂く稽古をすると、結論してもよい訳です。信心とは結局有難うならせて頂く稽古だと。そこで、先ず私共は、話を聞いて、成程成程と、合点が行くほどしに、頭で分かる。自分の心でそれを分かる。天地の御恩徳を聞かせてもろうたり、天地の道理を分からせてもろうて、その御恩徳に対する、神恩報謝の生活。
 それから道理を分からせて頂いて、道理に基づいた生活をさせて頂くという事。それだけでは有難くはなれないのである。それは本当に信心させて頂くようになって、本当に、初めて聞くお話。天地のお働き天地の御恩恵。天地の徳を聞かせて貰い。それを心から成程それが本当だろう。そうどころじゃなかろうとこう分かる。その分かった位の有難さでは、自分が助かったとは言えんのであり、人を助けるという事は出来んのである。この辺のところを間違えないようにしなければいけないですね。
 信心したら、有難かですのぉやち言うちから、その有難かならば、その有難いので人が助けられる程しの有難いでなければ。ここでは人が助けられるという事は有難い事ではないかと仰る有難い。お話を頂いて頭で分かる心でもそれを合点する。そこでそんなら分かる分からんは別として、有難い有難くないは別としてです。その御教に忠実に本気で行に入らせてもらう。そこから生まれてくる。これは実感として成程神様のお守りを受けておるんだなと、思わずにはおられない。
 そこから、初めて有難いというものは湧いてくるのである。話を聞いたから有難い只、お願いをしておかげを受けたから、有難いという程度の有難いはね。今日私は本当の意味での有難いという事を聞いて頂いておる。私も今日はここの所を初めて頂いておる所です。人を助ける事が出来るのは有難い事ではないか。ここで分からせてもらう事は、神様も助けきりなさらんなぁという事が分かるですね。
 どんなに人間が、難儀しておるからと言うて、神様がそんならあれが難儀しておるから、助けてやろうと言うて、助けなさる働きというものは、現わしなさる事は出来んという事が分かるです。人にすがっておられるです。人間は人を助ける事の出来る程しの心を頂いた時に、初めて神様と人間とが協力し合って、また人を助けるという事の働きが出来るのである。神様だけでは助けきんなさらん、という事を、自分で神様が暴露しておられる様な感じですね。
 助けきんなさるなら、私達に、こんな事言わんどいてから、神様はさっさと助けなさりゃよか訳だけれども。金光様の信心で言う神様は、そういう方なんです。だからあくまでも、氏子あっての神、神あっての氏子と。氏子との拘り合いというものを、いよいよ大切にしていく事が教えられる訳なんです。そこで神様のお心を分からせてもろうて、そのお心に添い奉る生活というのがです。天地の御恩徳に報いるとか、天地の道理に添うた生き方をさせてもらうという事からです。
 これは神様を実感として、神様の御守護を受けておるという事実を、頭だけではない、心だけではない。この五体にも感ずる事が出来るのである。五体、心頭この三つが合点した時、初めて生まれてくるのが、真に有難いというのである。これは確かにそうですよ。今日は、秋の霊様のお祭りを奉仕させてもらう。昨夜例によって十二時から、御霊様の今日の御霊のお祭りが、スムーズにおかげを頂かれる事の為に、御霊様の前夜祭とも言うようなお祭りを、私一人で奉仕させてもらう訳です。
 今朝丁度二時半でした。まだちょっと休ませて頂けるなぁと思って、休ませて頂いたそしたらね、人間でもなからなければ、まぁどういう事になるでしょうかね。誰かの声で「三時半ですよ」という声がした眠っておったら。だからハッと思うて眼を覚まさせて頂くのと同時に、三時半が私は三時半にベルが鳴るようにしてある。実際言うたら三時十五分です。けれども十五分間進めてありますから、三時半の所に三時十五分で起きる訳です。私が、ここへ出てくるのが三時半ですから。
 三時半ですよと起こされて眼が覚めたら、成程事実三時半を、丁度時計が指しておるとこうそういう時に、どう感じるかと言うとですね、そういう例はいくつもあります、いろんな場合に。時にねその神様に私は、本当に御守護を受けておるんだなぁ、守られておるんだなという事を感ずるです、これが実感です。さぁそこから湧いてくる有難さというものはね、もう限りがない。
 御神前に座らせて頂いても、只金光様有難う御座いますを繰り返させて頂いたら、願う事もなからなければ、詫びる事もない、お礼を申し上げるという事でもない。お礼を申し上げるという事になりましょうかね。ただ有難いと思うておるだけの事です。これは名状し難いと言うか、これは言葉では表現出来ないのである。有難いというものはね、人に伝える事は出来ないです。言葉に表わす事は出来ない。
 と言う程しのものが、有難いのでありそういう有難いのがです、初めて人を助ける事が出来るというのは有難い事ではないかというのは、そういう有難さなんです。しかもその有難いというのはです限りがない。その有難いというものを頂いていく、感じていくという事は、限りがない事なんである。だから限りなくおかげは自分自身が助かっていく事と同時に、限りなく人もまた助けていく事の出来れる働きが出来るのである。
 だから今日ここで言う有難いというのは、お願いをして何かをもろうた時に、有難かったという意味合い程度の有難いのではなくて、人が助かるほどしの有難いという、有難いというのを、今日は聞いて頂いた訳ですね。人間は人を助ける事が出来るのは有難い事ではないか。何気なく淡々と説いておられますけれども。たったそれだけの事の中にです。そんなに深い。ここで、分からせて頂くという事は、神様もやはり神様も人を助けなさる事は出来なさらんのだなという事も分かるです。
 いわゆる金光教で言う神様というものが、ここで感じられる。結局神様と私共が、教祖生神金光大神と天地金乃神との中からです。言うなら有難いものが育った生まれてきた。その有難いものが、このように沢山の人達が、助かる事が出来ることになってきた。だから金光大神の取次と言うか働きなくしては、私共は助かられないと言う事になるのです。それを、この方だけが助かるのではない。この方だけが生神ではない。
 皆もそのように助かる事が出来るのであり、皆もそのように生神になられるところの内容というものを持っておるんだと。それは愈々有難くならせて頂いて、その有難いというのが天地に通い、神様との間に交流する。そこに自分自身の助かりがある。腹も立たなければ不平もない。勿論不足等あろうはずがない。只理屈じゃない。人には表現出来ないほどの有難さ、まぁ言うなら、涙がこぼれるほどしの有難さという事になるでしょうか、強いて言うなら。けれどもそんなもんじゃない。
 有難涙をこぼしてと、こう言うけれども、そんなもんじゃない。金光教で言う有難さというものは。それを皆も、それを頂けれるんだという事。成程是では牛馬はわが子が水に落ちておっても、助ける事は出来んとおっしゃるが、成程是ではです。ただ私は人間だからと言うて助ける事は出来ない事が分かります、人間というだけでは。只今も申しますように、重たい物を持ってあるとを、私が半分持ってあげましょうと言うて助ける、そういう意味の助けるのじゃないのですから。
 これは信者氏子に対するところの信心での助かりの事なんです。又は助ける事なのだから。自分が助かり又は人を助けるという事なのだから。人間は病気災難の時神に助けてもらうのであるから、人の難儀を助けるのが有難いと心得て信心せよ。ここはどういう事かと言うと難儀な時に、神様にお願いをして助けてもらうのであるからと、ここではおっしゃっておられる。自分が如何にも助けきるように言うておられます。だからここでの神と言うのは、私は金光大神の取次を指したものだと思うですね。
 金光大神と天地金乃神との馴れ合いというものがです。そこに人を助ける事の出来るほどしの働きを産みなすのである。願う氏子におかげを授けというおかげが、まず頂かれる。そういう助かり。ところがそういう意味での助けて頂くというのは、本当の助かりという事ではないという事です。人の難儀を助けるのがというほどしのこと。だからここは、浅く深くね、どんなにでも頂けれる。今日私は現在の私の信心では、一番ぎりぎりの有難いという、有難いを聞いて頂いておる。
 言うならば、言葉にも形にも表わす事の出来ないほどしの有難い。いや人の難儀が真に助けられるほどしの有難いというところを聞いて頂いた。そこでです。そういう、有難いというものはです、人間だけではない。魂の世界にある、私共の御先祖であると思うですね。御霊様達をも、助ける働きが出来るという事である。私はそれを霊祭たんびに感ずるです。これは椛目の時代でしたが、霊祭の前の日は、自分一人で、御祈念をさせて貰って、そして、朝の御祈念まで、ちょっと休ませて貰う。
 休ませて頂いて、朝の御祈念の時間迄、ずーっと私の心耳に響いてくると言うか、肉眼の耳に響いてくると言うか、分からんけれども。それこそ、何千何万とも分からないほどしの、ひしめき合うたような御霊様の、何か、ブツブツブツブツ沢山な人が言っておる。例えば御本部参拝、大祭の時に参ると、何万の人が一斉に大祓を上げるでしょう。会堂一杯に、響きがあるでしょう。そういう感じです。しかもそれを、ようく聞かせて頂くと、おかげで助かって有難い。おかげを受けて有難い。
 いよいよ明日はおかげ頂けれる。そういう意味の事らしい。というのはどういう事かと言うと、大坪総一郎その人にですね。もう霊様達が助かられる喜びを、一生懸命にお礼を言うておられるという感じです。私はそん時に大したことだなぁと思うた。これは数は数えられないんだ。ここでお互いの、先祖代々の御霊様だけではない。ここの合楽に御神縁を頂いておる限りの人達に繋がるところの御霊。とりわけ改式をしておられるところの御霊達。又は御神縁を頂いておられる御霊達。
 それだけでも大した事だけれども。最近の私が御霊様を感ずる、私の感じ方というのが、世界総氏子の精霊という事になる。是はもう日々の事なんだ。だから兎に角数で読める筈はない。例えば世界真の平和を願うとか、世界総氏子の身の上安全と願うと同じよりも大きいです。地球上にどれだけ人間がおるか分からんですけど。それだけの事じゃなかもん。それを勿論祈らずにはおられないほどしに、私はおかげを頂いておる。是は実感として。しかもその魂の世界をです。大雑把では分からないけれども。
 それを一人一人の御霊様の上に、スポットを当てるように、一人一人の御霊様の所に絞る。又は一家なら一家中の御霊様に絞る。又は今年なら今年、お国替えを頂かれた霊様だけに絞る。そういう意味で、お取次させて頂いてです。御霊の心情というものを、御霊の心というものを、感じ取らせて頂く事が出来る。ですから実を言うたら、この会堂に入りきんなさるこつじゃなか訳ですね今日のお祭りは
 。合楽に御神縁を頂いた限りの、だから今日のお祭りには、皆さんがお参りし合うて、私げには御霊様にお祭りしとらんけん、玉串は上げんでんよかろうてんなんてん言うてよかろうはずがない。私だんなここにお届けお願いをしとらんから、お供えせんでん良いといった様な事もあってよかろう筈もない。二、三日前でした。椛目の内田さんが、御霊様のお祭りのたんびに、本当に御霊様に喜んで頂く。ここでは範囲が狭いですね、お互いの場合、皆さんもそうですよ。
 他所の御霊さん迄と、皆さん、力があるでもなからなければ、そういう実感が湧く人のあるとも思われません。事実私が感じてから。ですからせいぜい自分の家のうからやからの御霊の事でございましょうけれども。ですから本当にお爺ちゃんは甘いものが好きじゃった。兄弟の誰々はお酒が好きであったと思うて、そんなら甘いもの辛いものといったような思いを込めてお供えさせてもらう。
 ですから、大変タバコがお好きであったという所の御霊様は、タバコやらのお供えもなさる。自分の思いというか、真心がそこに込められてのお供えを、皆さんがなさる訳なんです。それで先日内田さん御霊様に、何が一番求めておられますか、何が欲しいですか。内田さんで言うなら、恐らく御主人かお父さんやら、お母さんであろうと思うです。霊様から、何をお供えしたが一番よかですか。ああた方が求めるもの。酒がよかなら酒、焼酎がよかなら焼酎。タバコがよかならタバコ。
 ぼた餅がよかなら、ぼた餅のお供えもさせてもらおう。何か夢の中にでもよいから、お知らせ下さいと言うて休ませてもろうた。そしたらね、休んだらすぐ、お夢とも御心眼ともつかずに頂かれたのがね。大きな籠にね一杯のなすびとキュウリが入っておる所を頂かれたという事です。皆さん分かるでしょう。御霊様が何を一番求め給うかという事なんです。お酒でもなかった。ぼた餅でもなかった。勿論タバコでもなかった訳なんです。嗜好品、生前何々が好きであったからと。
 例えば、私の方の妹の池尻の家なんかは、霊祭になりますと、必ず沢山のうどんのお供えを致します。亡くなりました弟が、大変にうどんが好きで、亡くなる時に、うどんがおいしいおいしいと言うて、頂いて亡くなりました。もう遅配欠配の、うどんを買おうと言うてもないのですから。もう、本当に黒いようなそばのごたる感じのうどんやら、親戚に百姓しとる人がおりましたから、時々持って来てもらうと、それがもう何よりものよりもの、おいしいものとして頂いた。
 ですから、これは、どんな事があっても、うどんだけは必ず。しかも後の御直会に、皆さんに頂いてもらうだけ、沢山にお供えをする。これが、私の方の妹の家の、御霊様に対するお供えです。ですからそこに、そういう思いと言うか、込めるという事なんですからね、思いを。しかも自分の連れ合いの事ですから、家内として思いが込められないはずがない。さぁ御霊様の時にはうどん。だから、うどんを、ちゃんと前々から予約してあるという訳なんです。
 ですから、そこに私共のささやかな真心と言うか、一心というものが、お供えに通うのですから。成程それも有難い事なんだ。けれどもね、御霊様はそれよりもっともっと、私共に願ってござる、求めてござったものは、キュウリとナスビだという事です。キュウリという事は、ここではもじって書くと久利と書く。これは昔御理解に頂いた事があって以来、キュウリのお供えを頂くと、いついつ迄も頂かれるおかげという事は、お徳を受けなければ出来ませんから、お徳だという風に頂いておった。
 ナスのお知らせは、安心のおかげと頂いております。あれはナスの濃い紫を、色別でいろんなお知らせ頂く時に、紫の色を頂いたら安心だと。心配事の時に、皆さんが一生懸命御祈念しておる。いろんな御心眼は頂けなくても、眼の前が真っ赤になる事がある。眼の前が真っ青になる事がある。眼の前が、それこそ、濃い濃い紫の色を感じるような事がある。だから紫の色を感じた時には、あんたが心配しとるとは、心配せんでもよいよ、というお知らせなんです。信心を積んで徳を受ける。
 そして安心のおかげ、お互いが御霊様もさる事ながら、例えば遺族の者がね。真の信心によって神徳を受ける。日々安心の喜びの生活をしておるという事が、御霊にとっては、何よりもの願いである。同時に何故それを願われるかと言うと。例えばお金の無い所にお金を借りに行く訳に参りません。あそこにお金が無い事は分かっておる所へ、お金を借りに行かれないでしょう。あそこには、お金を持ってあると思うから、借りに行くでしょう。御霊様の中にはね、自分で、生前、お徳を受けてです。
 あの世にも持って行け、この世にも残しておけるというほどしの徳を受けた御霊なんかというのは、滅多にありません。ですから、あちらではガツガツとしながら、いろいろな求めに求めてやまない心の状態でおる訳です。そこでそんなら、内田さんの所のお父さんと、内田さんという事にするとです、家内が一生懸命信心して徳を受けてくれよるから、時々それを借りに来る事が出来る。貰いに来る事が出来る。
 だから御霊様が、主人の御霊が家内であるところの内田さんに、何を求めたかと言うと、信心の徳を積んでくれ、信心の徳を積んでくれ。そうすると私達もその御霊にあやからして頂く事が出来るんだという訳なんです。御霊様が一番に求めておるのは、そういう信心を求めておるのであり安心、又は力と言うか光と言うか、いわゆる御神徳を受けてくれと願っておるのであります。だから私共はこの世でおかげを受けさせてもろうて、あの世にも持って行けると言われるお徳を、遺族の者に頼らんですむ。
 いや遺族の者が困っておるなら、遺族の者の為に働きが出来る位な御霊にならせて頂く願いを持たにゃいけんお互いが。そこでです、今日の御理解。人を助ける事が有難い。助ける事が出来るのは有難い事ではないかと教えられる。これは人だけではない、霊の世界にある御霊様達迄をも、助ける事が出来るという事が言えますですね。そういう大変な事。そういう大したおかげの頂けれる、お互いが道に縁を頂いた。そういうおかげの頂けれる信心に御縁を頂いたという事だけでも有難い。
 だからその道を歩かずして頂ける事はありません。私は昨夜遅うここの手洗いにやらせて頂きましたら、菊の花が一杯差してある。ところが中、二本だけしわ枯れてしもうとる。それを私が全部引き出したところが、全然水につかってないものその二本だけは。これではね、枯れるはずなんだ。そんなら金光様の信心頂いておるから、金光教という壺の中に入れてあろうけれども。
 水に根がつかっておらなければ、その水を吸い上げる事は出来ないでしょう。その吸い上げる力、又その水に浸らせて頂いておる。それが実感なんです。おかげを頂いておるという実感です。御守護を受けておるという実感です。私が今朝からから感じさせて貰う所の、三時半ですよと誰かが起こしてくれた。そしたら丁度その時に三時半の時計がジンジン鳴っている。いやぁ神様ちゃ恐れ入ってしまうなぁ。
 夕べは眠ってないから例えばジャンジャン言うたっちゃ、覚えんかも知れん。それで鳴る寸前に三時半ですよと起こして下さってある。そこにです頭で分かり心で感じる。そしてそんなら五体にも感じる事が出来る程しのもの。そういう例えば三時半ですよなんて頂いた時には、もうどんなに眠いとか疲れておるとかと言うてもね、その血が新しい血に変わる程しに生き生きしてくるです。
 言うならば神様のそれに触れるからなんです。そこへもってきて三時半のリンリンが鳴ってご覧なさい。それこそ何ともかんとも言えん。この様に身近に神様を感じる事が出来るという事は、その様に身近に神様が私の上に働いておって下さるんだと思うから、もう只理屈ではない、言葉には表現出来ない程しの有難さというものが頂ける。そういう有難さを持ってです。私は人間を助ける事が出来るだけではない。
 御霊の世界に信心しておる所の、難儀をしておる所の御霊達をも救い助ける働きを、起こす事が出来るというのが有難いと心得てと信心せよと仰る。有り難いとはそういう有難い事だと。それは一足飛びに頂けるとは思いません。けれどもそういうおかげの頂けれるです。そんなら私でも一年ばっかり前迄は、とてもとても世界中の精霊の事なんかとても夢にも思うた事もなかった。実感が湧かなかった世界総氏子の事ですらが実感が湧かなかった。言うならば隣近所ぐらいの事、信者の方は勿論ですけども。
 例えば合楽に住まわせて頂いとるけん、合楽の村中の事位は願えたけれども実感として。けれどもそれが段々段々おかげを頂いて、世界中所か地球上だけではなくてです。この世を離れたあの世におる精霊、御霊達の事迄もです。天地の神様にお縋りしてあげれる程しの、自分の心の助かりというものを頂いておるという事がです。有難いのであります。だからそれを有難いと心得て、信心せよと教えておられる訳ですよね。
   どうぞ。